探針

ものの見え方をふやしたい

一人称複数の失敗

中学から高校まで、個人塾に通っていた。高校生だったある日、先生は別の生徒に現代文を教えていた。新聞の人生相談を使って、相談者の気持ちをその文章から考えさせていた。面白そうだったので首を突っ込んだ。細かい内容は忘れたけれど、相談者の年齢は同じぐらいで、何かについてどうしたらいいか、みたいな相談だったと思う。

先生にどう思うか訊かれて、答えたけれど、軽い肯定の反応が返ってきただけだった。けれど、いまでもその答えは(ある程度)正しいと思っている。


「新聞に相談できる時点で、ほとんど解決してるんじゃないですか」


にべもない。その頃の自分の肩を持つと、相談内容からは切実さを読み取れなかったんだと思う。それに、どうしたらいいか、なんて合理的な選択肢は片手で数えられるほどだろうし、その優先順位は自分で決めてやるしかないだろう。

新聞の人生相談は、相談者にこたえを与えるだけではなく、相談さえできない読者のためにあってほしい。

 

進路への不安からか、森七菜に興味を持ちはじめた。『天気の子』では馴染んでいて、特に何も思っていなかったけど、『ラストレター』の川で生物部の活動をしていて片想いする人の無防備な横顔を見る視線があまりにもリアルで、そこから「なぜこんなことができるんだろう」と思い、気になりはじめた。森七菜が新海誠の作品の中で一番好きなのは『言の葉の庭』だというエピソードがあるので、『言の葉の庭』を見返した。


靴職人を目指す高校生・タカオは、雨の朝は決まって学校をさぼり、公園の日本庭園で靴のスケッチを描いていた。ある日、タカオは、ひとり缶ビールを飲む謎めいた年上の女性・ユキノと出会う。ふたりは約束もないまま雨の日だけの逢瀬を重ねるようになり、次第に心を通わせていく。居場所を見失ってしまったというユキノに、彼女がもっと歩きたくなるような靴を作りたいと願うタカオ。六月の空のように物憂げに揺れ動く、互いの思いをよそに梅雨は明けようとしていた。(https://www.kotonohanoniwa.jp/page/product.html)


物語のクライマックスは非常階段のシーン。『天気の子』でも非常階段はそれを使う者に重要な意味を付与している。非常階段を登るのは救ける者であり、降りるのは救けを必要としている者である。『言の葉の庭』のクライマックスは、日本庭園の東屋から始まったふたりの特別な関係を、ユキノが現実的で「通常」な関係で捉えなおそうとしてしまい、フラジャイルなふたりが傷つくことで始まる。


助けを求めない強さと、助けを求めることができない弱さは、共に、表出しない。


視点をずらす。

頼られなかったとき、果たしてそれはどちらだろうか。

あるいは、サインを見落としてしまったのか。

だから、どこにもいかない。