探針

ものの見え方をふやしたい

スープの冷たい距離

親世帯と子世帯が分かれて暮らすときにちょうどいい距離は「スープの冷めない」距離だという表現がある。

もちろん比喩だから、具体的な距離云々がある訳ではなく、付かず離れずがよいということだ。

 

この表現を見たとき、逆に「冷たいスープのぬるくならない」距離じゃダメかな?と思った。冷たいスープが好きだから。

 

もっとも美味しいスープはヴィシソワーズにしてある。冷たいじゃがいものポタージュである。生まれて初めて食べた冷たいスープは、おそらくこれだった。繊細なポロ葱のさわやかさとじゃが芋のなめらかなクリーム感!

やっぱり夏、温くならない内に食べるのが一番いい。

 

こうして冷製スープの肩を持っていたけれども、スープの「冷めない」距離が表現として生き延びて来た理由はその逆を思いついた時点で気づいていた。

 

親と子の関係がスープに重ねられている。関係が冷めないことがスープの冷めないことに、家庭料理としてのスープに家族関係が仮託され、また、温かいスープを飲んでホッとする感覚も、この表現の隠し味になっている。

 

長く残る表現にはそれなりの理由がある。

こういう訳でスープの「冷たい」距離は広まらないだろうと予測がついてしまった。

 

ただ、広まっていかないだろうという理由で、「選ばれなかった」冷製スープの表現を使わないのは淋しいことだと思う。

 

だから「スープの冷めない距離が〜」と聞いたら、「ああ、スープの冷たい距離ね。」と言うことにした。