探針

ものの見え方をふやしたい

10月4日

 レストランで西洋料理を口にして、シロナガスクジラの大模型や動物園の動物を見る。入場券にキリトリ線は入っていなかった。それから少しして、家に帰る山手線の車内でそれは発生した。私たちは手を繋いでいた。自分の右手と相手の左手。利き手はお互い反対で、使い慣れた手をフリーハンドにしていたのかもしれない。

 指が絡み合う手にそれの視線が触れた途端、私の左の席に子供が一人、発生した。もしかすると以前からいたのかもしれなかった。いま穿った見方をすれば、「発生するために私たちを必要とした」のかもしれない。

 年齢は10歳を越えないぐらい、性別は中性的というより限りなく無性別に近く、希薄な──消された文字の痕跡のような──女性。

どうやら私の子供なのに、「私たち」の子供ではないようだ。抑圧された記憶でもあれば別だけれど、身に覚えは当然無かった。

 新宿駅で中央線に乗り換え、私と子供の二人で家に着いた。ここから先の記憶は曖昧で、かえって憶えていないことそれ自体がある種の必然性を湛えているようだった。

 そして子供は成長することなく、8年が経った。重ねた月日の中ではただ子供だけが悠然とその絶対性を保ち、私は疲れきっていた。レゾンデートルへ疑念を抱かない幼児に、誰が対抗できるのだろう?

 私は他人の子どもたちと積極的に関わり、その経験から手段を身につけようとしている。うまくいかなければ、子供とは別居する(もちろん私が出て行く)とか、本を読み、運動し、音楽を聴き、旅行するとかして、物理的距離をとる。時間が解決してくれるように、生活をしていく。そうしてついに、欠くことができないのにとめどなく溢れていた何かを抱きとめる。

 そういう夢をみた。