探針

ものの見え方をふやしたい

回想中

那須の温泉に行った帰り、高速バスの中でこれを書いている。

小旅行の醍醐味は帰りのバスや新幹線で窓の外を見ながら、回想するときだろう。疲れて眠る人もいる。それも同じことだろうと思う。

普段の生活とは時間の流れを異とする旅行から、もとの生活に戻るのは、めざめることと同じである。

夢を思い出して生のまま捕まえておこうとすることに、回想することは似ている。    

たいていはうまくいかない。忘れてしまう。重大なら、そもそも憶えたくなくても憶えてしまっている。

より忘れているのは思い出そうとして「いた」ときのことだ。寝ぼけつつ思い出そうとしていた自分の光景はまったく辿れない。

帰りのバスの車内では覚めながらに夢の回想をしている。窓の外のアナローグな変化を見つめるこの時間は、那須にて過ごした時間よりも早く、忘れ去られるだろう。日常/非日常の「スラッシュ」にあたる「いま」は90分しか残っていない。

 

 

親切は親を切る?

何かの本の帯に書いたあったやつ。

答えは〇〇ページに!とあったので見ないで考えることにする。

 

親切をするシーンから考えた。

例えば、おばあさんが道を渡るのを手伝うとき、親しく話しかけるだろう(わざとらしい導入)。

これから親切は「親しさを切る」だと分かった。

もちろんこの「切る」は「身銭を切る」と同様、「持ち出す」の意味である。

 

素人が作ったわりにはそれっぽい理屈が出来た。

なら、その本に載っている理路も驚きが無さそうだし、なにより作る方が面白いので結局読まなかった。

いい感じの物語が出来たら教えてほしい。

 

本屋の本棚

本屋の棚からは活きのいい本が飛び出している。

半分嘘です。

 

 

新書や文庫といった小さめの本の話をする。

本屋の棚から本が飛び出しているのは、その本が一度誰かの手に取られ、戻されたから、というふうに簡単に考えてはいけない。

 

観察すると、一冊を手に取るときにはその周りの本もついてくることがあり、そのあと元に戻すと、周りがあまり戻らないせいで、取っていない本だけが飛び出して残る場合もあるとわかる。

取られていない本が飛び出している場合もあると分かれば、スタートラインに立つことができる。[何の?]

 

これで、手に取られた本とそうではない本の違いが、ある程度は見るだけで分かる。

そしてそこから、ほんの少しのずれ、差異が眼につくようになる。

そこから、丁寧に本をもどす人、何を手に取ったのかを隠す人が持った本を知れる。

 

ここまで書いて、自分がなにを欲望していたかが分かった。

手に取った本を隠蔽し、それでいて他人のそれは見たい。

ある種の「覗き」趣味である。

「覗き」とは、自分はそれを知っているが、他人は「知られている」ということ自体を知らない、そういう状態である。

 

全く知らない他人が選んだ(選びかけた)ものに興味がある。
他人の考えている事は分からない。でも、明らかに自分と異なっているのはわかる。
自分が「おっ」と手に取る、そんなはずはない本が飛び出していると、「他者!」と思う。

このとき、気づかれたくない自分が動き出し、より自然な状態へと本を戻す(たまにそれは不自然な程に自然であったりもする)。

 

さもしい話だった……

 

 

リキッドルームはいい名前。

 

遠目で見たことしかないし、初めて見たときは名前を知らなかった。ただ「妙に四角くて黒い建物だな」と思ったのを憶えている。

 

恵比寿にある、リキッドルームというライブハウスのことである。

 

名前はサカナクションの曲「聴きたかったダンスミュージック、リキッドルームに」で知った(いい曲です)。

リキッドルーム(LIQUIDROOM)ってなんだよと思って検索し、あの建物と結びついた。

と同時に、何故かはわからないけど、いい名前だなあと感じた。

 

それから少し日をおいて、本屋に行ったとき、平積みされていた漫画から「ボールルームへようこそ」というタイトルが目に映った。

 

単語としてのballのニュアンスには「一つの集団、かたまり」がある。

そこから、ダンスをする人々をひとかたまりに見て、ホテルの舞踏室をボールルーム(ballroom)と呼ぶ。

 

でも、ボールルームと言われてすぐに「舞踏室」が思い浮かぶ人は少ないだろう(だからタイトルに用いてるんだろう)。蹴鞠でもすんの?って感じだ。

 

ballから踊る集団を感じないのなら、感じる単語を用意すればいい。

なんでしょうね?

「舞踏室」ではなく、「ライブハウス」で、「溶けあって一つに」なるイメージ。

暗い箱で音楽を溶媒に、溶けて混ざる観客。

 

 

LIQUIDROOM、素敵。

 

 

 

スープの冷たい距離

親世帯と子世帯が分かれて暮らすときにちょうどいい距離は「スープの冷めない」距離だという表現がある。

もちろん比喩だから、具体的な距離云々がある訳ではなく、付かず離れずがよいということだ。

 

この表現を見たとき、逆に「冷たいスープのぬるくならない」距離じゃダメかな?と思った。冷たいスープが好きだから。

 

もっとも美味しいスープはヴィシソワーズにしてある。冷たいじゃがいものポタージュである。生まれて初めて食べた冷たいスープは、おそらくこれだった。繊細なポロ葱のさわやかさとじゃが芋のなめらかなクリーム感!

やっぱり夏、温くならない内に食べるのが一番いい。

 

こうして冷製スープの肩を持っていたけれども、スープの「冷めない」距離が表現として生き延びて来た理由はその逆を思いついた時点で気づいていた。

 

親と子の関係がスープに重ねられている。関係が冷めないことがスープの冷めないことに、家庭料理としてのスープに家族関係が仮託され、また、温かいスープを飲んでホッとする感覚も、この表現の隠し味になっている。

 

長く残る表現にはそれなりの理由がある。

こういう訳でスープの「冷たい」距離は広まらないだろうと予測がついてしまった。

 

ただ、広まっていかないだろうという理由で、「選ばれなかった」冷製スープの表現を使わないのは淋しいことだと思う。

 

だから「スープの冷めない距離が〜」と聞いたら、「ああ、スープの冷たい距離ね。」と言うことにした。